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09/30/2008    お食い初め
今日はCちゃんのお食い初めの日でした~

お食い初めとは・・・wikipediaによると、
赤ちゃんが生まれてから約百日後に乳歯が生え始める。この時期に「一生涯、食べることに困らないように」との願いを込めて、赤ちゃんに食事を食べる様子をさせる儀式が「お食い初め」
らしい。

一般的に、
鯛の尾頭付き、汁物、焚き物、赤飯、紅白餅、香の物、歯固め石
を準備するらしい。

ということで、ウチの嫁さん、なにやら頑張って作ったみたい。↓



尾頭付きの鯛、蛤のお吸い物、筑前煮、梅干(コレを香の物というのか?)、
赤飯、紅白なます、(お食い初めにあまり関係ないけど)出汁巻きとお浸し、プリン
を作ったらしい。
ああ、あと、歯固め石は近所のママ友さんが神社に行った時にウチの分の
歯固め石まで拾ってきてくれていたらしい。


じゃ~さっそく儀式をはじめましょ~!

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09/28/2008    ウチの姫さま
こんばんは~
詩奈です。ひとしきり泣いた後の顔です・・・↓

PIC_0341-2 のコピー

最近、お腹がすいた時や眠たくてもなかなか寝付けない時、
だいぶ泣くようになりました。
自己主張とまではいかないんでしょうけど、これがコミュニケーションなんでしょうね。

それにしても、この数ヶ月で詩奈も大きくなったので声も大きくなってきてて、
ま~大泣きしてる時のやかましいこと~。
何をそんなに伝えようとしてんの~?
もう分かってるよ~っていうぐらいデカイ声~~~。

そんな詩奈、最近、自分で寝返りをうとうとするようにもなりました。↓
で~も~、結局中途半端にしか出来ず、しかも、戻る事もままならず、
結局泣く・・・

PIC_0373-2 のコピー

寝返りは出来るようになったらなったで、知らん間にうつ伏せになってしまうから、
それはそれで気をつけんとな~・・・

ともあれ、こうして子供ってのは大人が想像する以上のスピードで
成長していってしまうんだな~

名称未設定 1 のコピ-ー





帰省している間、ボクのオカンはず~~~~っとCちゃんの同じムービーを
何回も繰り返し見てました。『かわいいね~』と言いながら。
よっぽど初孫がかわいいようで。
親として、ボクもちょっと親孝行出来たかな?とちょっと安心しました。

そんなわけで、神戸に帰ってきてからすぐビデオカメラに貯めていたCちゃんのムービーを
DVDに焼きました。
というのも、意外や意外、かなり田舎なのでDVDプレイヤーなど、
無いと思っていたウチの田舎にあったので、
『じゃあDVDにして送るわ』
とオカンに約束して帰ってきたので、早速6月から9月までの分を2枚に分けて
DVDにしてメール便で今日田舎に送りました。
届くのは明後日ぐらいだろうけど、届いたらまたオカンはず~~~~っと見てるんだろうなぁ~

そんなムービーの一つをば。↓
最近やたら動くようになってるんですけど、
ブタの指人形を投げ飛ばしてもみくちゃに蹴ってました・・・。



まぁ、パパがブタかどうかはさておき、すくすくと育ってくれて親としては安心しとります。





09/25/2008    男三十
こないだの帰省で色々と考えるところがあった。
数日後の9/25。
今日はボクの誕生日。
平日だし、もうさほど祝う年でもないので特に何もしなかったけど、
男三十、家族をもつ身として、そして、一人の男として、
これからどう考えて、どう生きるのか、どう動くのか。
ここいらでちょっと真面目に考えてみてもいいのかもしれない。

自分の気持ちを綴っておきたい。
ただそれだけで書いたことなので、とても長い文章で、しかも退屈な日記かもしれない。
なので、サラっと読み流してください。

=============================================

2008年6月22日 詩奈が生まれた。
それからは子育て初心者のパパママにはなかなか大変な日々で、
あっという間にもうすぐ3ヶ月が経つ。

ボクの母は故郷の宮崎で3年前にかなり進行した肝癌が見つかった祖父を祖母と看病していました。
祖父は医者に『もう永くはないだろう。』と言われてからずいぶんと頑張って生きていた。
この7月に母が詩奈を神戸に見に来たぐらいだから、祖父の状態もイイものだと思っていた。
でもそうじゃなかったらしい。
むしろ7月から容態が悪かったらしい。
母には直接聞いてないけど、逆に『これからは祖父の容態がもっと悪くなるから神戸に当分来れないだろう』と思ってあのタイミングで母は来神したのかもしれない。
今考えるとそう思う。(まぁ、違うかもしれないけど。)



9/11 

夜、あまり祖父の容態が良くないと母から叔母に連絡が来た。それを受けて叔母はすぐ宮崎へ帰省。

9/17 
夜に母からボクに『おじいちゃんあんまり容態良くないわ』という連絡が来た。

9/18 

朝、母に祖父の容態を訊ねる為にTEL。
※相変わらずの容態らしい。もう今帰らないと生きている間に対面出来ないだろうと思い、
即、帰省する事に。ちょうど九州地方には台風接近の予報が出ていたので、飛行機は欠航になる恐れがある。
新幹線と特急を乗り継いで宮崎まで帰省。
宮崎入りしたものの、JR日向市駅で電車が完全にストップ。
理由は台風による豪雨のため、鉄橋周辺の環境を懸念して。
目的地の佐土原駅までまだ50~60kmはある。
結局一時間ほど日向市駅に停車した電車内で待たされて、
バスに振り替えて運行された。
佐土原には予定では19時着予定だったが、着いたのは21時半。
今思えば、それでもなんとかこの日にたどり着いていてよかった。

そうそう、この夜、人生初の金縛りにあった。
体が動かないのと同時に異常に体が熱くなった。
ウチの田舎にはご先祖の位牌を並べて祀っている所と、代々ウチに伝わっている仏像が2体ある。
そのすぐ近くで寝てた。
布団に入ってから、『あ、そういえばご先祖様に線香はあげたけど、仏様にはあげるの忘れてた・・・。』
と思い出したものの、横で母が寝ていたし、起こすのも悪いし、バチ当たりかなとも思いつつ、
でも、信心が伝われば怒られることもないだろうと、布団の中で手を合わせて、
心の中で仏様に『おじいちゃんをお守りください。』と念じた直後、体がかたまった。
でも、特に自分に霊感があるとも思ってないので、単に移動で疲れたんやな~って程度に思ってたらそのまま疲れて寝てた。

9/19
 
朝、母と祖母で宮崎の平和台病院へ。
※叔母は前日、病院に泊まって看病していたので、交代する形で祖母を病院に残して、母を仕事場に送り、叔母を家へ連れて帰った。
この時、ボクは約3年ぶりぐらいに祖父に対面。3年前の祖父の面影は正直言って無かった。
あの時は叔父・叔母・ウチの嫁さんと4人で帰省をして、体は元気とはいえないものの、ちゃんと歩いていたし、会話のキャッチボールもしっかりできていた。
そんな祖父が3年経って、やせ細ってしまって、入れ歯を入れていなかったこともあり、頬がボクの記憶にある祖父のそれから大きくやせこけてしまってた・・・。
もはや、会話は出来なかったけど、『○○【←ボクの名前】が帰ってきたよ!』という語りかけに目で反応している・・・という状態でした。
それでも、このような状態が長く続いているのだろう、また、母は介護ヘルパーの仕事をしていて、
何人かの患者さんを受け持つ身、これまでも祖父の事で仕事を抜けさせてもらっていたと思う。
祖父との挨拶も早々に、母を仕事場に送らなくてはならないので、すぐに病院を後にした。
今思えば、これが生きている祖父との最後の対面だった。

はっきりと時間は覚えていないが2時前だったと思う。病院から電話。『おじいさんの容態がちょっと良くないから来てください。でもそんなに急ぐほどではないので慌てずに来て下さいね。』
※念のため仕事中の母にそのことを伝える。やっぱり、これまで仕事を抜けさせてもらった事と、自分の仕事の役割の大きさ、
祖父の容態がまた今までと同じように持ち直すのではないか。それらの考えがあってか、母は
『病院行って、様子見てから電話してきてくれる?』
母ならそう言うと思った。母の考えている事が分かっていただけに『おじいちゃん危ないかもしれんのに、冷たい奴やな。』とは全く思わなかった。

病院へ出かけようとした時、祖父の弟であるTおじさんがウチの前に来ていて、母の弟と話をしていた。
Tおじさんは20年ほど前まで自衛隊に所属していたので、79歳になった今でもしっかりとした思考だし、
普通に走ったり階段も駆け上がったり出来るほど。
そのおじさんに電話の内容を伝えると、ちょっと離れたところに住んでいる、祖父の妹を連れてすぐに後で病院に向かうということだった。
一緒に居た母の弟は年齢的にはまだまだ働き盛りな年齢だが、祖父譲りの酒好きが祟って、ボクが子供だった頃の記憶のそれとは明らかに変わってしまった。
いわゆる『アルコール依存症』だ。あの時とは変わってしまったが、ボクは子供の時、カブトムシ取りや川遊び、畑の土いじりなど、田舎の思い出をたくさん作ってくれたこの人を悪い人とは思わない。
基本的にイイ人だと思う。でも、しょうがない人だとも思う。母もそう思ってるんだと思う。
そういえば、このおじさんとカブトムシを取りにとうもろこし畑に行った時に早朝の谷に出た、アーチではない、ドーナツ状の円の虹が子供心に衝撃的なまでにあまりにキレイだったことを思い出す。


閑話休題。
おじさんはその母の弟も一緒に後で病院に連れて行くからということだった。

叔母を車に乗せてすぐ平和台病院へ向かった。
この日の朝、ボクは初めて平和台病院に行ったので、もちろんこの辺りの土地勘は皆無だった。
叔母も昔住んでいた土地とは言え、もう何十年も前の話。土地勘はボクの土地勘に毛が生えた程度と言ってもいいぐらいだと思う。
でも、こういうこともあるだろうと、朝、母が運転して病院に来た時、意識的に道を覚えていたので、結構長い道程だが迷う事は無かった。
この道中、祖父が亡くなるとか、そういう悪い事を考えたくなくって、叔母と他愛も無い、『あ~あ、道端の田んぼの稲が台風で倒れてるね。大変やね~・・・』なんて話をしながら向かった。
そして病院に着いた。


とにかく、叔母を病院前ですぐに降車させて、先に病室に向かってもらい、僕は駐車場に車を止めてから病室へ。
ボクが病院に二機あるエレベーター前に行った時には既に叔母を乗せたエレベーターは病室のある3Fに行ってしまっていた。
もう一機も3Fにある。
『3Fならすぐだ』とエレベーターすぐ横の階段を駆け上がり3Fの病室へ。
病室へ入ると祖母が
『じいちゃん、○○【←ボクの名前】が来たよ。目を開けんね(目を開けなさいよという意味)』
と祖父の手を握り、体をゆすっていた。
叔母はその祖母の傍らに立っていた。
ほどなく看護士さんが病室に入ってきて、
『さっき14時前に息を引き取られたのを医師が確認しました。』
と言った。
先に入室していた叔母もまだ知らされていなかった様子で、
ボクと時を同じくして祖父の死を知った。
聞くと、祖母に見守られながら『静かに苦しまずに逝かれましたよ。』ということだった。
祖母は祖父が亡くなったのを目の当たりにしながら、
それを受け入れたくなかった一心で『目を開けんね』と言っていたのだ。
祖父の死も悲しかったが、その時、『目を開けんね』と言った祖母の気持ちが痛いほどにはっきりと分かったので、
叔母とボクは同時に涙を流していた。
9/19、13時57分に祖父は亡くなったそうだ。

そこへ祖父の弟、祖父の妹、母の弟がやって来た。
叔母と看護士さんに祖父が亡くなった事を聞くと祖父の妹は祖父に歩み寄り、
祖父の瞼を手で開けようとしながら、祖母と同じ事を何度も何度も言っていた。『目を開けんね~。目を開けんね~。』

祖母が優しく手を握って体を揺すっていたのに対し、祖父の妹は祖父の瞼を開けようとしていた。
その祖父の妹の行動はいささか乱暴にも思える行為だったけど、血のつながっている者の、
祖父の死を受け入れたくない、祖父を思っての事ということははっきりと分かった。
ただ優しく祖父の体を揺すっていた祖母の、悲しいけど、祖父への優しさを最後まで忘れない祖母の優しさもはっきりと分かった。
それぞれの祖父を思う気持ちが痛いほど分かったので、
叔母とボクはさっき拭った涙がまた流れていた。

それでも、ともかく母に早く伝えなければならないという気持ちがボクにはあったので、
母の携帯に電話をした。
母は電話がつながるなり、『どうやった?』と、
多分、祖父がこのタイミングで亡くなるとはまだ思っていなかっただろう。
さほど低くないトーンで訊ねてきた。
『さっき亡くなったんやって。もう着いた時には亡くなってたわ。』
そう答えると、
『そうか・・・』と母のトーンが少し落ちたのが分かった。
それから、病室で看護士さんに言われた、
『葬儀屋さんはドコに頼まれるんですかね?あと、葬儀屋さんが何時ごろ御遺体を引き取りに来られるのか、親戚の方でご対面される方が居たら早く呼んで下さいね。早めに御手を死後硬直で組めなくなってしまうので。』
ということを伝えると、
『Tおじさんとセレモニー(葬儀屋の名前)とどうするかを話ししてもらって。私は5時半頃まで仕事してから行くから』
とう答えだった。
少し意外な答えだったけど、母の仕事のこと、これまでのこと、そしてTおじさんや叔母、ボクが居るというこの状況から考えると母の答えも理解できる。
電話を切り、母との会話の内容をTおじさんと叔母に伝えると、
母の弟が『○○【←母の名前】は△△【←違う葬儀屋の名前】に知り合いが居るから、セレモニーじゃなくって△△でするんじゃないの?』と言う事だった。
そのあたりの事情はTおじさんと母の弟しか分からない。ボクと叔母は長く宮崎を離れているから。
5分だったか、10分経ったか、ああでもないこうでもないと話していたり、
叔母が関西にいる叔父と自分の娘たち(ボクから見ると従姉妹)に連絡している時に、
ボクの携帯に母から電話があった。
『やっぱり迎えに来て。』
とのこと。後から母から聞いた話では、やっぱり仕事をこれ以上抜けられないという事もあったので、
仕事場の責任者だけに報告だけして、仕事は最後までやってから帰るつもりだったらしいけど、
『すぐに帰っていいから、すぐ病院行って』と言われたらしい。

母を迎えに行くという旨を病室に居るみんなに伝えて、すぐに病院を出た。
朝、病院から母の仕事場までも母の運転で行っていたのだけど、
この時も、何かあったらダメだからということで、意識的に道を覚えながら助手席に乗っていた。
病院から家までも結構距離があるけど、病院から仕事場まではその倍以上の道程。
今、考えると本当に意識的に道を覚えていて良かったと思った。迷わず母の仕事場に着いた。
仕事場から病院までは母に運転を交代して向かった。

家、病院、仕事場の位置関係としては病院と仕事場が一番距離があり、家はそのちょうど中間という位置。
母は運転しながら色々と考え事をしてたんだと思う。何故か間違って家へ向かっていた。
それでも覚悟をしていたことだろうからか、車内では叔母と病院へ行った時と同様、
他愛もない会話をした。昼間に病院へ向かう時に叔母が『あ~あ、道端の田んぼの稲が台風で倒れてるね。』と言った
全く同じ場所に差し掛かった時に、母も同じように『道端の田んぼの稲が台風で倒れてるわ~。』って。
『さっき叔母ちゃんも同じことゆうてたで~。さすが姉妹やな~』なんて会話を。

病院に着いてからの母は、
この時が来るという覚悟が出来ていたからか、Tおじさんと看護士と今後の話をし、
淡々と事を進めている感じだった。
この場にこの人が居ないと何も進まない。それぐらい母に皆が依存している感じだった。

葬儀屋との連絡も一段落し、病院に葬儀屋が祖父の遺体を引き取りに来て、
ボクたちは家でそれを受け入れる態勢を執らないといけないという話しだったので、
皆で家に帰って部屋を片付け。
帰りの車内の中で、叔母もボクも死に目に遭うことが出来なかったが、
祖母が見守る中逝った事、そして、少しでも叔母もボクも祖父に会う事が出来てよかったなぁ。
きっと祖父はボクや叔母たちが来るのを待ってくれていたんだ。
そんな話しをしながら帰った。
本当に待ってくれていたかどうかは祖父にしか分からないが、
少なくとも絶妙のタイミングで帰省したんだなぁとこの時ボクは思った。

家に着くと、周り近所の人がたくさんウチに居た。
かなり田舎なので、皆がこういう時に持ちつ持たれつで一致団結して、こういう時に総出で手伝ってくれるらしい。
男衆は力仕事、女衆は枕飯【遺体の枕元に置いてお供えする、茶碗にご飯を高盛りして箸を立てる】を炊いたり、近所周りに連絡してくれたり。
そして祖父が最後に寝る布団を部屋に敷いて・・・。

そうこうしているとすぐに祖父の遺体は運ばれてきた。
ごくごく身内のTおじさん、ボク、母の弟、それと葬儀屋の人で祖父を抱えて布団に寝かせた。

葬儀のスケジュールは、もうこの日(9/19)はあまりにも急だということで、
翌日9/20にお通夜、9/21に告別式ということになった。

それからはもうバタバタしすぎて、誰が何をしたのか、何をしに来たのか、はっきりと覚えていない。
それぐらいバタバタだった。祖父の死を悼んだのは病院でのあの一瞬で、
それからは忙しさで皆が何も考える余裕が無かった。

確か、身内は近所のみんなで線香を順繰りにあげて、ちょっとしたらお寺のご住職が
今後のお話をしにわざわざしに来てくれた。それは覚えてる。
ご住職は曹洞宗の方で、戒名の院号をどうするかという細かい話しや、
今後の葬儀などのスケジュールなど事細かにわざわざ説明しに来て下さった。

イイことなんだと思うけど、ボクはこの年にして、ごくごく身近な人が亡くなったことが初めてだったので、
葬儀などにまつわる事に関しては普通の人より無知かもしれない。
戒名の院号の話しなど、今回ご住職から聞いた時は目から鱗だった。
ご住職の説明によると、
戒名とは世俗での地位を捨てて、魂の世界では皆が平等という意味で世俗の名を捨てて、
新たな名前をつけるということということだった。
だのに、院やら、居士、大姉、信士、信女という、位が戒名にはあるらしい。
なんだか矛盾してるな・・・。住職の説明を聞いているボクはそう思った。
それでも、祖父が曾祖父を弔う時、居士の院号をお願いしていたそうなので、
祖父にも居士でお願いすることにしたらしい。

この日の夜は通夜ではなかったけど、ろうそくと線香を絶やしてはならないということで、
母、叔母、Tおじさん【祖父の弟】、母の弟、ボクで深夜まで火の番をした。
『○○君は昨日も電車が遅かったし、疲れたやろ?隣の部屋で先に横になり。』
という皆の言葉に甘え、2時ぐらいに寝た。
他のみんなは4時ぐらいまで頑張って起きていたらしい。

そういえば、昨夜の金縛りは虫の知らせだったのかな・・・?



9/20
朝。6時には皆起きてたけど、またまたなにかとバタバタしているとすぐに時間は経った。
近所の方が集まって通夜が終わってから、親族が斎場でつまむ為の煮物、おにぎり、漬物などを
かなり沢山作ってくれた。

午前中に葬儀屋さんが棺を持ってきた。
棺に祖父を入れる前に、あの世への身支度として祖父の足に真っ白な足袋を
祖母と母、叔母で履かせる。
ごくごく近しい親戚で祖父を棺に納め、
母の弟が近所の男衆と庭に生えている南天(ナンテン)の木を切って作った杖を棺に入れ、
葬儀屋さんの提案で祖父の棺に親戚一同の髪の毛と爪を切ってそれを白い布で包んで
一緒に祖父の棺に。これで御霊が寂しがる事もないということらしいです。

昼頃。
関西の叔父からTEL。前日の晩に叔父、従姉妹二人とその子供3人と車で帰省してきた。
叔父はほとんど土地勘が無いので、ナビを頼りに近くの高速の降り口を降りてから少し走った所までは行き着いたようだったが、
道が分からなくなったということで電話してきた。
母はバタバタしているし、幸いボクが分かるところに叔父は居たので、迎えに行く事に。
叔父は神戸から一時間ほどのところに住んでいるけど長らく会ってなかった。3年ぶりの再会。
従姉妹の子供たちも3年前に会ったっきり。めちゃくちゃ大きくなってたなぁ~。
子供の成長は本当に早い。
それでも3人が3人とも、『○○く~ん!』って抱きついてきたな~。
まだまだボクの子供からの人気も捨てたもんじゃないのかな~?

叔父を迎えに行ったり、その他雑用であっという間に時間は過ぎ、
斎場へ祖父を送り出す時間に。

葬儀屋さんと近しい親戚の男衆で棺をかつぎ、葬儀屋さんの車に乗せた。
家からその車が出発する時、テレビでよく見ていたような、霊柩車がクラクションを鳴らしながら出て行った・・・。
そのクラクションの音が消えると、また何事もなかったかのように田舎の音(虫の鳴き声)が聞こえたのが、
妙に寂しかった。

祖父を送り出してから、少し時間があったで、神戸から持ってくるのを忘れていた『黒の靴下』を
近くのコンビニに一人で買いに行った。
田舎といえど、やっぱりコンビニは全国区の価格で、安くもなく、靴下1足が500円もした。
フツーは3足1000円(1足333円)ぐらいですよね。
高いな~と思いつつも、何かあったらアカンから2足買っとこう。と思い、2足購入。

家に帰ると、もうぼちぼちスーツに着替えて通夜のために斎場に行かんとダメというような感じだった。
さっき買った黒靴下を履き、スーツを着て。母も叔母も祖母もそれぞれに喪服に早々に着替えた。
母の弟はスーツには着替えていたが・・・
母が『あんた、その靴下で行くの!?』
見ると、白の靴下。しかも農作業した後のそのまんまか、めちゃくちゃ汚れてる。
『これでええが~』と母の弟が言うと
母は『黒の靴下持ってないのん?』
母の弟は『もっちょらん。(持ってない)でも、座敷に上がらんとが。(座敷に上がる事はないでしょ?)』と。
まぁ農作業しかしないから白しか持ってないのかもしれないけど、さすがにねぇ・・・
母は重ねて、『通夜終わったら座敷に上がるで。親戚で集まる会があるのに。』と。
ここで、あ~さっき2足買っといてよかったわ。と思った。
これ以上の兄弟げんかも見かねるので、『俺、2足買ってきたから1足あげるわ。』と母の弟に1足譲った。
本当は通夜の後、バタバタして、告別式の時に間に合うように洗濯できるかどうか分からなかったので、
1足キープで置いておきたかったが・・・。

そんな兄弟のゴタゴタを子供であるボクは何度も見てきたので、(というか、基本的に母の弟がだらしないのが原因。)
さほど気にもならなかった。

で、そんなゴタゴタもありつつ、すぐに皆で車で斎場へ向かった。

ボクは斎場の通夜会場のすぐ横にあった親族の部屋に入って、
香典の受付などは近所の方が一手に仕切ってくれていたので、
特にしなければいけないこともなく、従姉妹の子供3人の面倒を見ていた。
30分ほどすると、すぐに通夜が始まった。

かなりの人数の方が参列してくれた。
親族は少ないが近所とのつながりが強いから近所の人がかなり多かった。
あとは祖父が以前お世話になったデイサービスの関係者の人とか。
それと、母の関係の人が多かったなあ~
母は田舎に帰ってから色々な事に積極的に取り組んでいるようで、
宮崎県議会議員の人や、仕事関係の人だけでかなりの数あった座席も足りないぐらいだった。
ゆったりとした時間の流れる田舎で、エネルギッシュに生きている母のつながり、人間関係が
よ~~~く分かった。これだけの人を支えて、そして支えられているのだと。

ご住職のいささか短いお経の後、
母に介添えされて、まず祖母が焼香を。
続いて、Tおじさん、祖父の妹、母、母の弟、叔母、ボク・・・
焼香をあげている時は前日の午後や当日のバタバタがあったので、
意外と涙は出なかった。

その後、親族、それ以外の方という順番で焼香をあげた。

通夜はさびしいぐらいにあっけなく終わった。
終わってからは久しぶりに会う親族や友人との再会を懐かしむ場となった。
不謹慎と思われるかもしれないが、人が亡くなると、人が集まる。
そうして、また良い出会い、再会があるのだと母は言った。
もっともだとボクもその直後に思った。

通夜の参列者がほとんど帰ってから、
帰省したボクにはなかなか知った顔が居ないが、懐かしい顔を見た。
ウチの向かいのS君だ。
彼とは小さい頃、近所ということもあったが、共通の趣味『野球』を通して友情をあたためた仲だ。
ボクも帰省するたび、彼の所属する少年野球チームの練習に参加させてもらったりしていた。
彼には面白いエピソードがあって、試合で9回1死でランナーが三塁で監督からスクイズのサインが出ているのに
打席に入っていた彼はそれに気付かずに、フルスイングでサヨナラホームランを打ったという、
小さい時からなかなか肝のすわったスラッガーだった。
大きくなって、ボクは中学・高校とバレーボール部に入ったので野球からは離れてしまったが、
彼は高校まで野球を続け、宮崎県代表で甲子園にまで出場した。
また面白いのは、ボクが高校のバレーボールの全国大会で宮崎まで行って、
終わって帰ってくるフェリーの中で、彼のお母さんに会ったということだ。
彼のお母さんは彼の出場する試合を応援しに甲子園までフェリーで向かっている所だった。
つくづく、何か縁があるんだろうなと高校時代には思った。

そんな彼は高校野球が大好きだった祖父にとって、孫のボクよりもかわいい存在だったのかもしれない。
祖父とボクと、S君と3人でああでもないこうでもないと小さいながらも生意気に、
TVの前で野球談義を笑顔でしていたことを思いだされる。
あの時の祖父の笑顔は忘れない。

彼が焼香をあげて帰って行った後、
母の同窓生が4人来てくれた。
みんな田舎のおばさん、という印象だったけど、一人だけ、パーマかけて、
しかも結構そのパーマが似合ってて、化粧もキレイにしている人が居た。
母の傍にボクは居たので、その人たちに『息子です。』と紹介され、
会釈をし、それからは母と昔話をして、10分ほどでそのおばさんたちも帰っていった。
後から母から聞いた話だと、そのパーマをあてていたおばさんは
あのモデルのエビちゃんの叔母さんだったらしい。
同窓生だったらしい。
さらに、『エビちゃんのお父さんとも一緒にお酒を呑む仲よ。』と母は言っていた。
エビちゃんはウチの田舎、宮崎の佐土原出身だったらしい。知らんかった・・・;

ま~、つくづくこの人(母)には色んなつながりがある。
息子ながら驚かされる。

余談だが、同じ芸能人つながりで言うと、祖母の甥(ボクから見るとどういう血縁になるのか?)は
今井美樹の実家の庭の手入れなどをしているらしい。
今井美樹が宮崎に帰省してきた時に今井家と栗拾いしたらしい。ちなみに今井美樹の実家の裏が
そのおじさんの土地で、栗の木が生えてる。今回、ボクも従姉妹の子供たちと行ってきた。
ウチからかなり近くって、車で2分ぐらいかな・・・。
ちなみにボクが子供の時にドーナツ状の虹を見たトウモロコシ畑は今井美樹の実家から徒歩ですぐの所。

都会の人が聞いたらびっくりするような芸能人でも、
田舎の人にとっては普通の人と同じ。別段めずらしい様子もなく普通に接する。
う~んミーハーなボクにはムリかな・・・。


閑話休題。

そうして、あっけなく祖父の通夜は終わった。
田舎なので、9時以降に線香をあげにくる人はまず居ない。
夜ご飯を食べる暇もなかったので、親族控え室に戻って、
Tおじさん、母、叔母、母の弟、ボクで、近所の人が作ってくれた煮物などをつまんだ。

線香をあげに来る人がいないと言っても、線香とろうそくの番はしないといけないので、
みんなで斎場に泊まった。幸い、布団は用意してあり、シャワー室まである。
さすがにみんなで入れるシャワー室ではないので一人づつ順番に。
比較的新しい斎場だが、シャワー室の照明は白熱球で、さほど明るくなかった。
『斎場の』という意識もあってか、シャワーを浴びる時、ホラー映画を見た直後に風呂に入るのが怖かった子供時代のように
目を開けながらシャワーを浴びた。

順繰りにシャワーを浴び、香典の計算を母と叔母とボクと三人でしてから、
皆疲れきっていたので早々に寝た。
(結局、線香は一晩あげ続けなくても、蚊取り線香のような渦巻き状の、一晩もつ長い線香があるからそれでイイという事と、ろうそくの火は斎場の当直の人がしてくれるということだったので。)

9/21
朝になり、母と叔母のいびきで寝れなかったと何度も騒ぎ立てる母の弟と母がまた一悶着。
確かに、いびきはうるさかったが、夜中にそれで寝れなかったのがよっぼど頭にきたのか、母の弟は『誰じゃ~、イビキかきよるんは。』と空気を読まないデカイ声で何度も騒いでいた。
ボクからしてみれば『いやいや、アンタのほうがうるさかったわ・・・。』という感じだった。
母もそう思っていたみたいで、『うるさかったのはドッチや。』と言い合ってた。
いや、ドッチもうるさかったよ。

寝れなかったから家に帰って寝るといい出した母の弟。
母もボクもこれ以上『寝れんかった』と騒ぎたてられるのは御免こうむりたかったので
家までボクが送っていった。
『もう葬式こんでエエ。』母ははきすてた。ボクも正直同じ気持ちだった。昔はこんな人じゃなかったのにな。

母の弟を送ってからすぐトンボ帰りで斎場に帰り、軽くおにぎりを皆でつまんで、身支度をしたら
あっという間に時間は過ぎ、『出立ての膳』の時間になった。
『出立ての膳』とは簡単に言うと『出発の膳』ということらしい。
故人と同じ部屋で膳を囲み、故人を送り出す。ということだそうだ。

出立ての膳を早々に食べ終えて、式に参列する人がパラパラと来始める時間になったので受付に立ったが、
祖母と母の弟を家まで迎えに行かないといけなかったので、早々に受付を交代してもらった。
家に着くと、意外に祖母と母の弟は身支度をそこそこ済ませていて、
すぐにも家を出られる状態だった。
特に母の弟が気がかりだったので、ちょっと意外だった。
それでも、『ちゃんと黒い靴下履いてる?』と聞くと、
得意げにズボンのすそをあげて『履いちょる。』ということだった。
まぁ、昨日履いてたまんまだろうけど・・・;

祖母と母の弟をピックアップして斎場へ戻ると、次々と近所の人も来ていた。
告別式まではまだ時間があったので、祖父のもうひとりの弟(Tおじさんにとっても弟)のAおじさんと
祖父に線香をあげた。
通夜の時もそうだったが、線香をあげる時に思うことは
長い闘病だったので、『お疲れ様』ということ、
『寂しいだろうけど、まだ当分の間おばあちゃんは連れて行かないでね。』
『おばあちゃんが元気で長生きするように見守ってくださいね。』
ということだった。


さて、そろそろ式の開始の時間が迫ってきた。
そういえばまだ叔父・従姉妹とその子供たちが来ていない。
さすがに人数が多すぎて家には泊まれなかったので、
佐土原駅前のホテルに泊まってもらったのだ。
前日の通夜が始まるまでに時間があったので、
土地勘の無い叔父たちの車を先導する形でホテルまで送った。
家からホテルまでは距離があるものの、一直線で曲がるところも無い。
ホテルについた時点で土地勘のない叔父でも『これやったら迎えに来てもらわんでも斎場までいけるわ。』
ということだった。斎場は家とホテルのちょうど中間にあり、家と斎場までの一直線の道の近くではなかったけど、
1回曲がるだけの、めちゃくちゃ簡単な道程だった。
まさか迷ってないだろうと思いつつも、叔母に電話をかけてみたら?と促して
電話をかけたところ、子供たちの身支度で手間取っていて、今からホテルを出るところだということだ。
まぁそれでも十分間に合う時間。

・・・・・・

それから30分ほど経って、告別式の開始時間になってもいっこうに来る気配がない。
叔母もボクも式が迫ってバタバタしているからとても迎えには行けないが迷ってるのか・・・?
結局式が始まっても叔父たちは来なかった。
後から聞いた話によると、ホテルを出て、西向きに一直線の道を行かなければならないのに、
北向きに一直線に走っていたらしい。アレ?と思った時点ですぐ電話してくれれば、
コッチも電話がとれたし、式にも間に合ってたのに。
叔父が土地勘がないのは分かる。もともと叔母の故郷だからそんなに
帰省する機会も無いし。しかし、従姉妹たち大人二人もいる中でなんでそんなことになるのか・・・。
告別式に出席する為にはるばる関西からやって来たのに、何をやってるんだか・・・。
ボクが思ったぐらいだから、やたらそういうことにうるさい母は絶対に思ってたはずだ。

式が始まってからはもちろん式に集中していたので、叔父たちがいつ来たのかは分からないが、
血縁者でありながら、参列者の一番後ろに座っている様は、
いささかお粗末だった。
特に、このようなことに非常に敏感な田舎では尚の事だった。

それはさておき、式の最中、先に書いた子供時代のS君と祖父と3人で見た高校野球観戦のエピソードなどを思い出し、
泣かないだろうと思っていた僕の頬を涙が伝っていた。
横を見ると、涙もろい叔母も泣いていた。自分の父が亡くなったんだ。色々な思い出がボク以上に頭を駆け巡ったんだと思う。
やっぱり母は泣いてなかった。
祖母を支えなければならない自分の立場があるから泣く事が出来なかったんだと思う。
母が泣いていない事はボクにとって、全然意外じゃなかった。

ご住職のお経は昨日の通夜より長かった。
曹洞宗のお葬式は初めてだったので、初めての光景がいくつかあった。
そうしてご住職のお経が一段落してから、親族、その他の参列者の順に焼香をあげた。

全員の焼香が終わってから、ご住職のお経がしばらくあって、
お経が終わると告別式ももう終わりに差し掛かった。
Tおじさんが親族を代表して挨拶をした。
Tおじさんは母同様、気丈に淡々と祖父が亡くなってからの色んな事をこなしていた印象だったが、
さすがに感極まって声を震わせていた。
告別式前の葬儀屋さんの説明では、挨拶の途中で言葉に詰まったら周りを心配させてしまうし、
挨拶は紙に書いたものを読んでも問題ないという話だったけど、Tおじさんはカンペ無しで立派に挨拶をしていた。

挨拶が終わってからは最後のお別れで、
お猪口に注いだお酒を各々口をつけてから祖父の口や胸にかけ、
花輪や祭壇の花を棺に入れた。

式の間、ただ呆然としていた祖母がこの時、
また病院でしていたように、『目を開けんね』と言っていた。
それまでなんとか気丈に振舞っていた母も祖母の介添えをしながら涙を流していた。
祖母の気持ち、母の気持ちが伝わってきて、また叔母とボクは泣いた。もうほとんど号泣だった。

棺の蓋が閉められ、いよいよ出棺の時間になってしまった。
近しい親戚の男衆で棺を担いで斎場外に止まっている霊柩車へと棺を運んだ。
もちろん、ボクも涙を拭って棺を担いだ。

棺を霊柩車に収めると、親族は斎場のバスに乗って、火葬場まで行った。

火葬場まではかなり遠くて、バスで30分ぐらいあったかな・・・。
途中、パラパラと雨が降ってきて、バスの中のどこからともなく、
『涙雨やなぁ・・・』と聞こえてきた。

火葬場に着いて、棺を釜に入れる前に、
また皆で線香をあげた。

線香をあげたらすぐに釜の前まで移動した。
釜の前に親族皆が並び、葬儀屋さんが釜に棺を入れ、
合掌した後、釜の点火スイッチを母が気丈にというより冷静に押した・・・。

祖父の亡骸を焼いている間、親族は一度斎場へ戻った。
故人の魂がついてこないように、ということで、行きと帰りは道が違った。

斎場に戻ってからは、親族はすぐウチのほうへ各々の車で帰っていった。
ボクたちはその後拾骨があったので、斎場にそのまま残った。

一時間ほどしてから斎場の車に乗って拾骨のために火葬場へ向かった。
バスで火葬場へ行った時と同様、ポツポツと雨が降ってきた。
今度は誰も何も言わなかったが、ボクは心の中で『涙雨・・・やな・・・』と思った。

火葬場について、5分ほど待合室で待たされた後、拾骨室に通されて、
骨だけになった祖父の亡骸に対面した。
実はボクは拾骨は初めてだった。
あまりに原形をとどめていない事に驚いた。
後から話に聞くと、お年寄りや病気をした人は老化や薬の影響から
骨があまり残らないということだった。
皆で順繰りに骨を骨壷に収めた。

事を済ませると早々に火葬場から斎場へ。
斎場で最後に片付けをしてから、
母の車をボクが運転して、家のすぐ近くの墓地へ
家に戻らず直接向かった。
墓地では既に告別式のときにお経をあげて下さったご住職や
近所の方々が納骨の準備をしてくれていた。
そう、焼いたその日に納骨するのがこの地域では普通らしい。
母の弟がこれまでとは打って変わって粛々とお墓に納骨した。
納骨が済んだら、皆でご先祖様に線香をあげ、
お地蔵様には線香とお供え(おにぎり)をした。
お地蔵様には三途の川までの案内をしてくださるという事だそうだ。

納骨が済んだら皆で家へ戻り、位牌の前で線香をあげ、
近所や親族が集まっての会食が延々、3時間ほど?続いた。
さすがに全員は家におさまらなかったので、叔父と従兄弟と子供たちは祖母の兄の家(ウチの斜め向かい)でご飯を頂く事になった。
従兄弟と子供たちは、あまりギャーギャーうるさくてもダメだし、まぁ当然という感じだったけど、
叔父が家の方で近所の人たちと会食しなかったのは、正直『ええ!?』という感じだった。
叔父は叔母(祖父の娘)の夫だし、香典返しの礼状にも名が載っている身で、
色々としてくださった近所の方々にお礼も言わないといけないから
当然ウチの方で皆と一緒に会食すると思ってたのに。
確かに、あまり宮崎の方言は分からないし、知っている人も少ない。
めちゃくちゃアウェーだ。
でも、それはボクも一緒。
この叔父はボクの母の姉の夫ということでもあるが、
実はボクの父の兄でもある。
そう、つまり各々の兄弟の兄と姉、弟と妹が結婚した。
だから叔父とのつながりも結構深いし、仲が悪いわけでもない。
でも、なんだか、そのアウェーな場から叔父が逃げているようで、
なんだか『あ~あ。なんだかこの人イマイチ・・・。まるで若い子みたいに幼稚だな・・・』
と思ってしまった。

実際、会食の場はなかなか疲れたけど、得る事もあったとボクは思う。
田舎の話が沢山聞けたし、こういう場でこそ、田舎の人たちと仲良くなるチャンスなのに。

会食が終わるともう22時ぐらいだったと思う。
後片付けなどをしていたら、この日もあっという間に終わってしまった・・・。
この日の夜、早々に祖母は布団に入った。
ちょっと気になって、皆が会食でガヤガヤ言っている最中、隣の祖母の部屋に覗きに言って見ると、
少し『う~~、う~~~』とうなされていた。
祖父が夢枕に立ってるのか?
ほどなく静かな寝息が聞こえてきたので、
『あ~・・・やっとおばあちゃんの長くて辛い一日が終わったな~~』と思った。
天井を見上げて心の中で『おじいちゃん、寂しいからってまだおばあちゃんは連れて行ったらアカンで。』と話しかけておいた。

この日は母、叔母、ボクで同じ部屋に寝た。
『またイビキかくんかな~』なんて思ってたら、母も叔母もゴ~ゴ~言ってた・・・。
まぁ疲れてたのかな・・・。ボクも疲れたので二人のイビキなど気にならず、深い眠りについた。


9/22
朝起きて祖母、母、叔母、母の弟、Tおじさんとボクで早速お墓参り。
道案内の地蔵様にお供えしたおにぎりはもう無かった。
このおにぎり、鳥などに食べられて早く無くなると、故人の周りの人はすぐに亡くなったりとかいう不幸は起こらないという言い伝えがこの地域にはあるらしい。

お墓参りを終えて、香典の計算とか、その他、近所の人に立て替えてもらっていたお金の計算などをして、
終わった頃に叔父や従兄弟と子供たちがホテルから家にやってきた。今度は迷わずに来れたらしい。
昼ごろまで、子供たちと家で遊んだり、今井美樹の実家裏で栗拾いしたり。
都会育ちの子供たちにとって、蚊にさされながらの栗拾いはなかなか新鮮だったみたい。
こういう経験も子供にはさせないとね。

昼過ぎには叔父たちは車でまた関西へ帰っていった。叔母はボクと一緒にもう一日家に居て片付けやらをするということで。

とはいうものの、もう皆疲れきっていたので、何をするわけでもなくお茶をすすっていた。

午後になってから、母が一冊の冊子を持ってきた。
母の話では、これは祖母の兄が50代の時にまとめておいた、
戦争体験記を母のかつての上司と母との3人で冊子に清書したものらしい。
おじさんは昔、巡洋艦『足柄』の見張りとして駆逐艦『神風』と共にフィリピン侵攻に従軍したそうだ。
冊子の内容は実に克明で、今まで見たり聞いたりしたどの体験記より生々しくその時のことを描写していた。
母はこれを単なる手記でとどめておくべきではないと思い、宮崎市や佐土原町の図書館に寄贈したらしい。

祖父の死で、そしてこのおじさんが書いた手記で、
この帰省で人の死というものをかなり考える機会が多かった。
そう思った。

夜になり、母と叔母と3人で温泉に入りに行って、帰ってきてから
『やっと落ち着いたな~』なんて話をしてると、
近所のおばさんがやってきて、
『お宅のお隣のおばあさんが一時間ほど前に亡くなったよ。』
ということだった。
落ち着いた所だったのに、母は今度は隣の家の手伝いに23時ぐらいから家を出て行った。
隣のおばあさんは92歳で、うちの祖父か、そのおばあさんか、どっちが先に逝くか。
という状態だったらしいけど、まさか誰もこんなタイミングで亡くなるとは思っていなかった。

こんな数日間に何度も死を意識することは今まで無かった。
それに対して、母の田舎でのエネルギッシュな生き方、
田舎の、地に足のついた、土をいじっての自給自足の生活。
生き方というものをこれほど意識した事も無かったかもしれない。

叔母が言った
『いいこと(詩奈が生まれたこと)があれば、わるいこと(人が亡くなること)もあって・・・』
というその言葉そのものの数日間だった。

さあ、また明日から神戸での生活が始まる。
いつまでも悲しんではいられない。でも毎朝西に向かって手を合わせることだけは忘れないでおこう。



おじいちゃん、ほんとうにおつかれさま。





はい、今日も昨日に引き続き、昼間のCちゃん画像を嫁さんから送ってもらいました。
最近、どうも自分の服をつまむ癖があるCちゃんなんですが、
今日はそれに輪をかけてすごかったようで・・・↓



イヤ~~~~~~ン!!
パパ、ショックやわ・・・
嫁さんからのメール本文には『わたちこれで空も飛べるわよ』と、ムササビか!?
というような内容でしたが、コレはどう見たって・・・



ただの露出狂や~~~~~ん!

って、写真撮っとらんと服正さんと、Cちゃん風邪ひくで~~~~~!



ココ最近、喋りかけにだいぶ反応するようになってきたということは
先日からちょこちょこブログに書いてましたが、
この数日でそれがさらに顕著になってきました。

話かければ笑うし、つい最近までは歌を歌ってあげると笑うだけだったのが、
コッチの歌っている口元を見ながら一緒に『あ~う~♪』と歌ってます。

曲目?
それはもちろん、『浜田雅功~やんやややややや~♪』ですけど。
なんか、まだママのお腹の中にいる時は『カモメの水兵さん』とか童謡を歌ってたので、
それを歌ってあげたらお腹の中の事も覚えてると言うし、喜ぶかなと思ってたんですけど。
親としては一番気に入って欲しくない歌を気に入ってしまったようで。先が思いやられます。

そんなCちゃん、今日の昼間はママと↓絵本を読んでいたそうな。
『ブーさんのブー』という絵本で最後のオチで『ブー』、『ブーブブー』と楽しくて声を大にする所が
あるんですけど、その一幕ですね↓
めっちゃ食い入るように見てます(笑)





これ、嫁さんからメールで送られてきた画像なんですが、
その時のメールの本文、、、『あ~パパだぁ』・・・ってオイ!!
確かにだいぶ太ってみたいになってきたけど・・・



09/03/2008    相思相愛!?
昨日のムービーからお気に入りのCちゃんをキャプチャしてみた。

Snapshot01-2.jpg


ナデナデされてニコ~っとしてるとこ。
う~ん!か~わいい~!(←って完全に親バカ~)


そして、そんなCちゃんの今日の一枚。

KC3A0058.jpg


Sassyのサンシャインミラーと見つめあってる・・・
相思相愛!?なのか?
やたらと周りのものが色々と気になりだしたみたい。
こうしてちょっとずつ大きくなっていくんやねぇ~


PS
なんか、まぁボチボチとゴハン作りはしてたんですけど、
ココ最近はなんだかちょっと疲れて炊事はサボリ気味でした・・・。
いや~世のお母様方は本当に毎日よくやってるな~と思いますよ。
見習わないとねぇ~・・・
ともあれ、今日のゴハン作り。↓
トマトとバジルのフェトチーネです。

PICT0132.jpg

日曜日に農協でやってる地場野菜の直売所でバジルが安かったので、
バジルとにんにくをオリーブオイルに刻んでつけこんで『バジルオイル』を作って、
トマト、バジルの葉、モッツアレラチーズを入れて。
塩は麺を茹でる時にお湯に大量に加えましたが、少し足りなかったので、
追加で少しだけ塩をふりました。
麺はあえてのフェトチーネで。『ジェノベーゼ』って細い麺を使うことが多いと思うんですけど、
フェトチーネが好きなもので・・・。

<反省点>
ジェノベーゼって基本的にちょっとオイリーなものだと思うんですけど、それにしてもちょっと
オイルが多すぎたかも・・・まぁ次回にこの失敗を活かしましょう~


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生後2ヶ月と10日目。
Cちゃんはだいぶ話かけに反応するようになってきました~

こうなってくると、これまでにも増して、余計にかわいいもんです。
つい先日なんて、お風呂に入れてる時に『パ』、『パ』を連発してて、
ふと『パ』を連続して発声したので、『パパってゆうたん?』と言うと・・・
片眉を上げて目を細めて『違うわい~~』っていう反応・・・。
『じゃあたまたまやったん?』という問いかけに・・・
これまた絶妙のタイミングで・・・『うん(”ふん”という発声に近かったかな)』。
さすがにタイミングが絶妙すぎて笑ろた・・・

今日は昼間にママがムービーを撮りました。
この時もママの語りかけに反応して笑ってましたよ~
まぁ、この掛け合い、ドッチが楽しんでるん?という感想をボクは持ちましたが・・・。



まぁ、ママも子育て大変ですが、だいぶ楽しめる余裕が出てきたということで。



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